あらすじ 主人公である'私'の心は、'えたいの知れない不吉な塊'に始終押さえつけられていました。'私'は、どうにもみすぼらしくて美しいものに心ひかれています。汚らしい洗濯ものが干してあったりするような裏通り、土に還ってしまうような土塀、そういうものが好きなのです。廃墟好きですね。なんとなくその気持ちがわかります。欝々とした心を胸に秘め、茫洋と街から街へと扶養(yǎng)していたわけです。 さて、ある夜のこと。そんな彼が心ひかれたのは、まさしくみすぼらしくて美しい果物屋でした。そこに、檸檬が売っていました。'私'は檸檬を買って懐に入れます。すると何だか心が晴れるのですね。たった一果の檸檬を懐に入れているというだけで。 金がなく、普段から避けていた丸善にも悠々入り、畫集なんぞをめくりだすのです。しかし、不思議とちっともつまらない。先ほどのまでの幸福感がするすると逃げていってしまうのです。 そこで、'私'はそうだ、檸檬だと思い至るのです。この憂鬱たる畫集を重ね、色彩の城をつくりはじめます。そして、その城郭に、檸檬を置いたのです。 さらに'私'は、もうひとつのアイデアをひらめくのです。そうだ、このままにして出ていっちゃおう、と。 '私'は何食わぬ顔をしてその店を出て、あの檸檬が爆弾で、木っ端みじんに丸善の美術(shù)棚を爆発させたらどんなに面白いだろうと思うのでした。 作者紹介 梶井 基次郎(かじい もとじろう、1901年(明治34年)2月17日 - 1932年(昭和7年)3月24日)は、日本の小説家。感覚的なものと知的なものが融合した簡潔な描寫と詩情豊かな澄明な文體で20篇余りの小品を殘し、文壇に認(rèn)められてまもなく、31歳の若さで肺結(jié)核で沒した。 死後次第に評(píng)価が高まり、今日では近代日本文學(xué)の古典のような位置を占めている[4][5]。その作品群は心境小説に近く、散策で目にした風(fēng)景や自らの身辺を題材にした作品が主であるが、日本的自然主義や私小説の影響を受けながらも、感覚的詩人的な側(cè)面の強(qiáng)い獨(dú)自の作品を創(chuàng)り出している。 梶井基次郎は當(dāng)時(shí)のごくふつうの文學(xué)青年の例に漏れず、夏目漱石や森鴎外、有島武郎や志賀直哉などの白樺派、大正期デカダンス、西歐の新しい蕓術(shù)などの影響を受け、表立っては新しさを誇示するものではなかったが、それにもかかわらず、梶井の殘した短編群は珠玉の名品と稱され、世代や個(gè)性の違う數(shù)多くの作家たちから、その魅力を語られ賞讃されている。 |
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