![]() 建安二十四年的荊州之爭,由于孫權(quán)和曹操的暗中勾結(jié),其形勢很快發(fā)生了根本性的轉(zhuǎn)變。在曹操和孫權(quán)的南北夾擊下,關(guān)羽腹背受敵,進(jìn)無可進(jìn),退無可退,終于敗走麥城,以身殉職,劉備集團(tuán)也因此永遠(yuǎn)失去了荊州。那么,一個曾經(jīng)“威震華夏”的虎將為什么會一敗涂地?在劉備方面,誰又該對這次慘敗負(fù)責(zé)呢? 上一章講到,呂蒙白衣渡江,偷襲南郡;徐晃趁機(jī)反攻,解救樊城。此時關(guān)羽的處境,用張作耀先生《劉備傳》的說法,是“既失地盤,又失將吏,更失民心”。如此“三失”,關(guān)羽走投無路,只有死路一條了。 大約關(guān)羽自己也意識到了這一點。據(jù)《三國志·呂蒙傳》,關(guān)羽很清楚自己勢單力薄窮途末路(羽自知孤窮),便逃往麥城(在今湖北省當(dāng)陽縣東南),又從麥城逃出(乃走麥城)。據(jù)《吳主傳》,關(guān)羽進(jìn)入麥城后,孫權(quán)曾經(jīng)勸他投降。關(guān)羽一面假裝同意,一面在城頭豎起旗幟和假人,悄悄逃走。逃亡的路上,士兵紛紛開小差,最后只剩下十幾人(兵皆解散,尚十余騎)。這大約就是《呂蒙傳》所謂“西至漳鄉(xiāng),眾皆委羽而降”,也就是從麥城向西(西北)走到漳鄉(xiāng)(在今湖北省當(dāng)陽縣東北)的時候,部下全都離他而去,叛變投降。孫權(quán)也料定關(guān)羽會逃,早就安排了朱然和潘璋“斷其徑路”。據(jù)《三國志》之《潘璋傳》和《朱然傳》,潘璋和朱然進(jìn)軍臨沮(在今湖北省遠(yuǎn)安縣西北),扎營夾石(在今湖北省當(dāng)陽縣東北)。十二月,關(guān)羽和他的兒子關(guān)平、都督趙累被潘璋的部下馬忠俘虜,后來又被殺。 建安二十四年の荊州の爭いは、孫権と曹操の內(nèi)通によって形勢が一変しました。曹操と孫権の南北からの挾撃の下、関羽はついに麥城を敗走して殉職し、玄徳の集団は荊州を永遠(yuǎn)に失いました。では、かつて「華夏を圧倒」した一人の虎將が、なぜ大敗北を喫したのでしょうか。玄徳の側(cè)では、誰がこの慘敗の責(zé)任をとるべきでしょうか? 前章で、呂蒙は白衣を著て、江を渡り、南郡を襲ったと書きました。徐晃は、これに乗じて、樊城を救ってくれました。この時の関羽の立場は、張作耀先生の『劉備伝』の表現(xiàn)を用いると、「地盤も失い、將吏も失い、更に民心も失った」ということになります。この「三失」では、関羽はもう、死ぬしかありません。 関羽自身も、そのことに気がついていたのでしょう。『三國志呂蒙伝』によれば、関羽は自分の力の弱さを知り、麥城(今の湖北省當(dāng)陽県の東南)に逃げ、麥城を脫出しました。「呉主伝」によると、麥城に入った関羽に、孫権は降伏を勧めました。関羽は、承知したふりをしながら、城頭に旗と人形を立てて、ひそかに逃げだしました。逃避行の途中、兵はばらばらに逃げ、ついには十?dāng)?shù)人(兵は解散、尚十余騎)になりました。これは『呂蒙伝』に「西は漳郷に至り、衆(zhòng)皆委羽而降」とあるように、麥城から西(西北)に向かって漳郷(今の湖北省當(dāng)陽県の東北)まで歩いたところで、部下が皆彼から離れて投降したというものです。孫権も、関羽の逃亡を予想して、朱然と潘璋に、「その道を斷て」と、あらかじめ手配しておいたのです?!喝龂尽护巍概髓皝弧工取钢烊粊弧工摔瑜欷?、潘璋と朱然は臨沮(現(xiàn)在の湖北省遠(yuǎn)安県の西北)に進(jìn)軍し、夾石(現(xiàn)在の湖北省當(dāng)陽県の東北)に陣を構(gòu)えました。一二月、関羽とその子の関平、都督の趙累は、潘璋の部下の馬忠に捕らえられ、また殺されました。 ![]() 關(guān)于關(guān)羽之死,歷史上頗有些不同的說法。包括誰殺的,死在哪里等等,都有爭議。爭議的原因,是《三國志》的說法看起來比較含糊,裴注所引材料又有些矛盾?!度龂尽侵鱾鳌氛f:“馬忠獲羽及其子平、都督趙累等于章鄉(xiāng)?!薄度龂尽りP(guān)羽傳》說:“權(quán)遣將逆擊羽,斬羽及子平于臨沮?!边@就有兩個地名了,一個漳鄉(xiāng),一個臨沮。至于是誰殺的,依《關(guān)羽傳》,應(yīng)該是奉命“逆擊羽”的潘璋,甚至干脆就是他的部下馬忠。然而該傳裴松之注引《蜀記》,卻說是孫權(quán)的決定。而且,孫權(quán)開始還不打算殺,說是要“活羽以敵劉、曹”。不過部下都不同意,說是“狼子不可養(yǎng),后必為害”。曹公沒有及時除掉關(guān)羽,不是弄得差一點就要遷都嗎?孫權(quán)這才殺了關(guān)羽。 此說裴松之認(rèn)為不實。裴松之說,當(dāng)時孫權(quán)命令潘璋攔截關(guān)羽,下令“羽至即斬”,當(dāng)然一抓到關(guān)羽,立馬就殺了。何況臨沮距離江陵二三百里,哪能不立即斬殺,還磨磨蹭蹭地討論什么該殺不該殺(豈容不時殺羽,方議其生死乎)? 関羽の死については、歴史上、かなり異説があります。誰が殺したのかとか、どこで死んだのかとか、いろいろ議論があります。議論の原因は、『三國志』の表現(xiàn)が曖昧であることと、裴注が引用した資料が矛盾していることです?!喝龂緟抑鱽弧护摔稀ⅰ格R忠獲羽とその子平、都督趙累は章郷に等しい」とあります?!喝龂尽护伍v羽伝には、「権遣將は逆に羽を撃ち、羽及び子平を臨沮に斬った」とあります。これは二つの地名があって、一つは漳郷で、一つは臨沮です。誰が殺したかというと、「関羽伝」によれば、命を受けて「羽を逆撃」した潘璋であり、むしろ彼の部下の馬忠ですらある。しかし、裴松之は『蜀記』を引用して、孫権の決斷だと伝えています。しかも、孫権ははじめは、「羽を生かして、劉、曹に敵う」と、殺そうとはしませんでした。しかし、部下たちは「子狼は育ててはいけない、後になって害になる」と言って、認(rèn)めませんでした。曹公は関羽の始末が遅れて、もう少しで遷都するところだったのではありませんか。孫権は関羽を殺しました。 この説は裴松之は真実ではないと考えます。裴松之によれば、孫権は潘璋に関羽の迎撃を命じて、「羽至れば斬れ」と命じ、當(dāng)然関羽をつかまえたかと思うと、すぐ殺してしまったそうです。いわんや臨沮は江陵から二、三百里も離れているのですから、今すぐ斬らずに、殺すべきか、殺すべきかを、ぐずぐず議論しているわけにはいきません。 ![]() 對此,張作耀先生不以為然?!秳鋫鳌氛f,潘璋他們的任務(wù)只是攔截,沒有擅殺之權(quán),《三國志》各傳也沒有孫權(quán)下令“羽至即斬”的記載。而且,從臨沮或漳鄉(xiāng)到江陵,水路不會超過百里,完全來得及請示。此外,張先生還舉《三國志·吳范傳》為例,來支持他的觀點。吳范其人,大約是位比較靈通的“預(yù)言家”,本傳說他“每有災(zāi)祥,輒推數(shù)言狀,其術(shù)多效”。孫權(quán)和呂蒙策劃偷襲關(guān)羽,許多人都說不可,吳范說能行。關(guān)羽向?qū)O權(quán)請降,孫權(quán)問吳范是真是假,吳范說是假。孫權(quán)派潘璋斷路,探子說關(guān)羽跑了,吳范說跑不掉。孫權(quán)問什么時候能抓住,吳范說明天中午。第二天中午,有風(fēng)吹動帷幔,吳范雙手一拍說:“羽至矣!”轉(zhuǎn)眼之間,外面山呼萬歲,“傳言得羽”。據(jù)此,張先生認(rèn)為殺關(guān)羽的是孫權(quán)。 張先生的這個說法其實是可以商量的。所謂“羽至矣”,并非是關(guān)羽已被押解到孫權(quán)的大本營,只不過是已經(jīng)抓住了的意思。因為不可能在此之前沒有關(guān)羽的任何消息,一有消息就連人都帶來了。所謂“傳言得羽”,便正是傳來了抓住關(guān)羽的消息。何況,裴松之的觀點也不無道理,《蜀記》的說法反倒可疑。什么“活羽以敵劉、曹”!利用關(guān)羽對付曹操還說得過去,要關(guān)羽去對付劉備豈非癡人說夢? これに対して、張作耀先生は何とも思っていません?!簞鋪弧护摔瑜欷?、潘璋らの任務(wù)は迎撃のみで、勝手に殺す権限はなかったそうですし、『三國志』の各伝にも孫権が「羽至れば即斬」を命じたという記述はありません。それに、臨沮や漳郷から江陵までは、水路は百里もありませんから、十分に指示を仰ぐことができます。また、張氏は『三國志』呉範(fàn)伝を引き合いに出して、この説を支持しています。呉範(fàn)という人は、およそよく通じる「予言者」で、本伝説では、彼は「災(zāi)祥があるたびに、轍は數(shù)の言狀を推して、その術(shù)は多く効があります」。孫権と呂蒙は、関羽を襲うことを企てましたが、多くの者は、いけないといい、呉範(fàn)は、できるといいました。関羽が孫権に降參を願い出たので、孫権が呉範(fàn)に真?zhèn)韦騿枻Δ?、呉?fàn)は偽りだと答えました。孫権は潘璋に道を斷たせましたが、関羽は逃げました、呉範(fàn)は逃げられません。いつ捕らえるかと孫権が問うと、呉範(fàn)は明日の晝頃といいました。次の日の晝、幔幕をうごかした風(fēng)に、呉範(fàn)は、両手をたたいて、「羽至ります」と、いった。瞬く間に、外の山は萬歳を叫んで、「うわさは羽を得ます」。このことから、張さんは関羽を殺したのは孫権だと考えました。 張さんのこの言い方は実は相談に乗ることができます?!赣鹬沥辍工趣?、関羽が孫権の本営に護(hù)送されたのではなく、捕らえられたという意味です。それまで関羽から何の連絡(luò)もないはずはありませんから、連絡(luò)があれば人まで連れてきます?!袱Δ铯丹嫌黏虻盲蓼埂工趣?、関羽を捕えたという知らせである。それに、裴松之の説にも一理あり、『蜀記』の説の方が怪しいのです。何が「生き羽を以て劉、曹に敵う」です!関羽を曹操に利用するのはともかく、関羽を劉備に利用するのは夢物語ではありませんか。 ![]() 因此我認(rèn)為,關(guān)羽是潘璋或者馬忠殺的,但不是“擅殺”,而是“奉命”。一種可能是孫權(quán)確實事先下達(dá)了“羽至即斬”的命令。此事雖然史無記載,但在邏輯上并非沒有可能。如此,則關(guān)羽很可能是馬忠殺的。另一種可能是孫權(quán)得到關(guān)羽被擒的消息后,發(fā)出了這一指令。據(jù)《吳主傳》,關(guān)羽被俘是在漳鄉(xiāng);據(jù)《關(guān)羽傳》,關(guān)羽被殺是在臨沮;而據(jù)《潘璋傳》,潘璋和朱然“斷羽走道,到臨沮,住夾石”,即以臨沮為軍營,夾石為設(shè)伏地。夾石在漳鄉(xiāng)偏西北。由此推論,潘璋在漳鄉(xiāng)抓住關(guān)羽后,便將其押解到軍營臨沮。這時,孫權(quán)的命令到了,潘璋便殺了關(guān)羽。因此,說關(guān)羽是孫權(quán)殺的,或者說是潘璋殺的,都通。 其實,就算是潘璋或者馬忠“擅殺”,責(zé)任也得由孫權(quán)負(fù),劉備也會把賬記在孫權(quán)頭上。這讓孫權(quán)感到后怕。孫權(quán)就想出了一個嫁禍于人的辦法。據(jù)《關(guān)羽傳》裴松之注引《吳歷》,關(guān)羽被殺后,孫權(quán)把他的首級送到了曹操那里。很顯然,孫權(quán)是要制造一個假象,讓大家認(rèn)為是曹操要他殺關(guān)羽的。孫權(quán)的這點小心眼,曹操還能看不出?就按照諸侯的禮儀厚葬了關(guān)羽。這也等于向大家宣布,關(guān)羽不是我要殺的。那么,曹操為什么不把關(guān)羽的首級退給孫權(quán)呢?第一,這也未免太過分,會和孫權(quán)翻臉,何況曹操確實有和孫權(quán)聯(lián)合共擊關(guān)羽的盟約。第二,曹操此刻是大漢王朝的丞相,代表“中央”,沒有退回“地方”上繳“中央”東西的道理。他只能用厚葬的辦法來撇清自己。 だから私は、関羽は潘璋か馬忠が殺したのだと思いますが、「勝手に殺した」のではなく、「命を受けた」のです。一つは、たしかに孫権から、「羽至れば斬れ」と、あらかじめ命じられていた可能性です。記述はありませんが、論理的に不可能ではありません。だとすれば、関羽は馬忠が殺した可能性があります。あるいは、関羽捕縛の報を受けた孫権が、その指令を発したのかもしれません?!簠抑鱽弧护摔瑜毪?、関羽はzhang郷で捕虜になります;『関羽伝』によると、関羽は臨沮で殺されました。そして『潘璋伝』によれば、潘璋と朱然は「羽を斷ちて道を歩き、臨沮に至り、夾石に住む」、すなわち臨沮を兵営とし、夾石を地とします。夾石は漳郷の西北に寄ります。そう考えると、潘璋は、漳郷で関羽をとらえて、兵営の臨沮へ護(hù)送しました。すると、孫権の命令で、潘璋は関羽を殺しました。だから、関羽を殺したのは孫権だとか、潘璋だとか言うのは、みんな同じです。 実際、潘璋や馬忠が「勝手に殺した」としても、孫権が責(zé)任を負(fù)うのですから、玄徳も孫権に責(zé)任を負(fù)わせます。孫権は慄然としました。孫権は、人に祟る方法を考えました。『関羽伝』裴松之注の『呉暦』によると、関羽が殺されたとき、孫権はその首を曹操のもとに送ったそうです。どうやら孫権は、曹操が関羽を殺させようとしているように見せかけているのです。孫権のこの小賢しい心根を、曹操はまだ見抜けませんか。諸侯の禮にしたがい、関羽を手厚く葬ったのです。関羽は私が殺すのではありません、と宣言したも同然であった。では、なぜ曹操は関羽の首を?qū)O権に返さなかったのでしょうか。第一、これではひどすぎます、孫権に逆らうでしょうし、曹操は孫権と連合して関羽を討つ盟約を結(jié)んでいます。第二に、曹操は今、大漢王朝の丞相であり、「中央」を代表していますから、「地方」を返して「中央」のものを上納する道理はありません。彼は手厚く葬る方法で自分を清算するほかなかった。 ![]() 無論如何,關(guān)羽是死了,荊州也丟了。這對于劉備集團(tuán)無疑是重大損失。因此我們就要問,在劉備方面,究竟誰應(yīng)該為這次慘敗負(fù)責(zé)? 也有各種說法。有說該由關(guān)羽負(fù)責(zé)的,有說該由劉備負(fù)責(zé)的,還有說該由諸葛亮負(fù)責(zé)的。之所以有這么多說法,根本的原因在于三個問題:第一,關(guān)羽該不該發(fā)動襄樊戰(zhàn)爭?第二,劉備該不該讓關(guān)羽都督荊州?第三,劉備集團(tuán)為什么聽任關(guān)羽孤軍奮戰(zhàn)不去救援?這三個問題當(dāng)中,第一個問題又最根本,我們就從第一個問題說起。 我們知道,關(guān)羽之所以敗走麥城,直接原因當(dāng)然是呂蒙和陸遜偷襲南郡,孫權(quán)集團(tuán)在他背后捅了一刀。不過,孫權(quán)和呂蒙、陸遜雖然蓄謀已久,但關(guān)羽如果不去打襄陽、樊城,他們也沒有機(jī)會。也就是說,沒有前面的襄樊戰(zhàn)爭,就沒有后面的敗走麥城。這就又有了三個小問題:一、是誰決定要打襄樊的?二、為什么要打襄樊?三、襄樊戰(zhàn)爭該不該打? いずれにせよ、関羽は死に、荊州は失われました。これは、玄徳の集団にとって、重大な損失であります。そこで問われるのは、劉備側(cè)において、この慘敗の責(zé)任をとるべきは、いったい誰なのかということです。 諸説あります。関羽が責(zé)任者、玄徳が責(zé)任者、孔明が責(zé)任者とあります。いろいろな説がありますが、その根底には三つの問題があります。第一に、関羽は襄樊戦爭をおこすべきか否か。第二に、玄徳は関羽を荊州都督にすべきでしょうか。第三に、玄徳はなぜ関羽の孤軍奮闘にまかせて救援に出なかったのでしょうか。この3つの問題のうち、最初の問題は最も根本的なものです。最初の問題からお話ししましょう。 関羽が麥城に敗走した直接の原因は、もちろん呂蒙と陸遜が南郡を奇襲し、孫権の集団がその背後を突いたことにあることはわかっています。しかし、孫権も呂蒙も陸遜も、かねてたくらんでいましたが、関羽が襄陽?樊城を攻めなければ、その機(jī)會はありません。つまり、前の襄樊戦なくして、後の敗走麥城はなかったのです。つぎに三つの小問題がおこります。一、襄樊を打とうとしたのはだれですか。二、なぜ襄樊を打つのですか。三、襄樊戦爭はやるべきですか。 ![]() 先說第一個小問題。關(guān)于這個問題,有兩種不同意見。張作耀先生的《劉備傳》認(rèn)為,襄樊戰(zhàn)爭是“關(guān)羽在劉備、諸葛亮的授意下”發(fā)動的。戰(zhàn)爭發(fā)動后,劉備和諸葛亮又沒有采取一系列配套措施。他們既不預(yù)警設(shè)援應(yīng)急,又不配置軍師將佐,居然放手讓那個有勇無謀、剛愎自用的關(guān)羽“獨自去做”。因此,對于這次失敗,劉備和諸葛亮難逃其咎,甚至“應(yīng)該承擔(dān)主要責(zé)任”。 何茲全先生的《三國史》則是另一種觀點。何先生說:“關(guān)羽進(jìn)攻襄陽、樊城,似乎預(yù)先沒有和劉備、諸葛亮商討?!边@是有道理的。因為查遍《三國志》,也找不到劉備或者諸葛亮“命令”或者“授意”關(guān)羽進(jìn)攻襄樊的記載。如此重大的決策,史書不該漏記,因此只能理解為關(guān)羽的自作主張。不過,劉備沒有授權(quán)或授意,也沒有反對。如果反對,歷史上也應(yīng)該有記載。如果劉備堅決反對,關(guān)羽就不會再打??磥?,劉備當(dāng)時的態(tài)度,是聽之任之,或者默許,甚至贊成。因此,他也不能說一點責(zé)任都沒有。 まず、小さな問題です。この問題については,2つの異なる意見があります。張作耀先生の『劉備伝』は、襄樊戦は「関羽が劉備、諸葛亮の意向で」起こしたとしています。戦爭がはじまってからも、玄徳と諸葛亮とのあいだには、一連のセットがありませんでした。急場の警戒もせず、軍師將佐の配置もせず、あの剛愎な関羽に、「一人で」やらせたのです。ですから、この失敗については、玄徳も孔明も、その責(zé)任から逃れることはできず、むしろ、「主たる責(zé)任をとるべきではないか」とさえ思われました。 何茲全先生の『三國史』は別の考え方です。何先生は、「関羽が襄陽?樊城を攻めたのは、玄徳や諸葛亮とは、あらかじめ相談していなかったようです」と、いった。これは一理あります。『三國志』を調(diào)べても、劉備や諸葛亮が関羽に襄樊攻撃を「命じた」とか「命じた」という記述はどこにもありません。これだけの決斷を、史書が洩らすはずがありませんから、関羽の獨斷としか思えません。しかし、玄徳は授権も意もなく、反対もしませんでした。反対であれば歴史に記録されているはずです。玄徳が頑なに反対すれば、関羽は二度と戦いません。見るに、玄徳の態(tài)度は、それを許すか、黙認(rèn)するか、あるいは賛成していたのではありませんか。ですから、彼にも責(zé)任がないとは言えません。 ![]() 諸葛亮則沒有責(zé)任。據(jù)《三國志·諸葛亮傳》,襄樊戰(zhàn)爭時,諸葛亮的官銜是“軍師將軍”,職務(wù)是“署左將軍府事”。這是劉備占領(lǐng)成都以后的安排。當(dāng)時劉備的官銜是左將軍,他的衙門就是左將軍府。所謂“署左將軍府事”,其實就是劉備的“總理大臣”或者“大管家”,任務(wù)是協(xié)助劉備做好工作,保境安民,并在劉備外出時“鎮(zhèn)守成都,足食足兵”。也就是說,諸葛亮并非劉備的“三軍總司令”或者“總參謀長”,職責(zé)也主要在行政、民政而非軍事,他有什么責(zé)任? 有人說,關(guān)羽發(fā)動襄樊戰(zhàn)爭,是按照諸葛亮的總體戰(zhàn)略部署行事的??缬星G、益,是諸葛亮的既定方針,《隆中對》里面說明白了的。因此諸葛亮也有責(zé)任。這話不通。諸葛亮的《隆中對》只是總體規(guī)劃,不是實施方案。關(guān)羽進(jìn)攻襄陽、樊城,諸葛亮并沒有直接下達(dá)命令,他也沒有這個權(quán)力。如果僅僅因為諸葛亮有一個隆中對策,就把責(zé)任算在他的頭上,這對諸葛亮不公平。 孔明には、責(zé)任はありません?!喝龂尽恢T葛亮伝によれば、襄樊戦のとき、諸葛亮の肩書きは「軍師將軍」、肩書きは「署左將軍府事」でした。これは、成都を占領(lǐng)した後の、玄徳の手配です。そのころ、玄徳の官職は左將軍で、その役所が左將軍府でした。「署左將軍府事」とは、劉備の「総理大臣」あるいは「大執(zhí)事」のことで、劉備の仕事を助け、境を守り、劉備が外出している間は「成都を守り、十分に兵を食らう」ことを任務(wù)としています。つまり孔明は、劉備の「三軍総司令官」でも「総參謀長」でもなく、軍事よりも行政?民政を主な任務(wù)としていたのですが、何の責(zé)任があるのでしょうか? ある人は、関羽が襄樊戦をはじめたのは、諸葛亮の総論どおりであったといいます。荊益にまたがることは、諸葛亮の既定方針であり、『隆中対』の中で明らかにされています。だから孔明にも責(zé)任があります。この話は通じません。諸葛亮の『隆中対』は総體的な計畫であって、実施案ではありません。関羽が襄陽?樊城を攻めても、孔明は直接命令したわけではありませんし、彼にもその権限はありません。ただ、諸葛亮に隆中対策があったからといって、彼のせいにするのは、孔明に対して公平ではありません。 ![]() 何況《隆中對》是怎么說的?諸葛亮說得很清楚:“天下有變,則命一上將將荊州之眾以向宛、洛,將軍(劉備)身率益州之眾出于秦川?!币簿褪钦f,諸葛亮的規(guī)劃,一是要天下有變,二是要兩路出兵。請問,關(guān)羽進(jìn)攻襄陽、樊城的時候,天下有變嗎?沒有。兩路出兵了嗎?也沒有。這怎么能說是貫徹諸葛亮的戰(zhàn)略部署?而且,照我看,關(guān)羽不但沒有貫徹諸葛亮的戰(zhàn)略思想,反倒破壞了他的戰(zhàn)略部署。因為荊州一失,兩路出兵北上滅曹一統(tǒng)天下的可能性就永遠(yuǎn)沒有了。 這一點,我想諸葛亮不會不明白。那么,他為什么不阻止關(guān)羽的行動?這里先留一點懸念,我們以后再說?,F(xiàn)在先回答前面提出的第二個小問題:為什么要發(fā)動襄樊戰(zhàn)爭? 呂思勉先生的說法是為了配合劉備在漢中的行動。呂先生的《秦漢史》說:“逐利之兵,亦宜同時并出,首尾相應(yīng),故劉備之兵未還,關(guān)羽之師已起矣?!睂Υ?,我有些想不通。劉備進(jìn)軍漢中,是在建安二十三年(公元218年)。斬夏侯淵于定軍山,是在建安二十四年(公元219年)正月。曹操進(jìn)臨漢中,是在這年三月,五月即撤兵退回長安。如果關(guān)羽此戰(zhàn)是為了牽制曹操,為什么早不動手?等到七月,劉備早就據(jù)有漢中,都已經(jīng)自稱漢中王了,再來進(jìn)攻襄樊,豈非多此一舉? まして『隆中対』はどう言っていますか。孔明ははっきりいって、「天下に変があれば、一上將に命じて、荊州の衆(zhòng)を宛、洛に向かわせ、將軍(劉備)は益州の衆(zhòng)を率いて秦川に出させます。」つまり、孔明の計畫は、天下に変をおこすことと、二手に出兵することであったのです。あの、関羽が襄陽?樊城を攻めたとき、天下は変わりましたか?ありません。両軍は出兵しましたか?それもありません。どうして孔明の戦略を貫いたといえるでしょうか。しかも、私の見るところ、関羽は孔明の戦略を貫くどころか、かえって孔明の戦略を破壊してしまったのです。荊州を失えば、両軍を北上させて、曹を滅ぼして天下を統(tǒng)一する可能性は、永遠(yuǎn)になくなってしまいます。 そのことを、孔明が知らぬはずはありません。では、なぜ関羽の動きを止めなかったのですか?ここで少し懸念を殘しておき,我々は後の話にしましょう。ここで二つ目の小質(zhì)問にお答えしますと、襄樊戦はなぜおこったのか。 呂思勉先生の説は、劉備の漢中での行動に合わせたものです。呂先生の『秦漢史』には、「利を逐う兵もまた、首尾相応のものとして、同時に同時に出るべきであり、故に劉備の兵はまだ返さず、関羽の師はすでに起っている」とあります。それがちょっと腑に落ちませんでした。劉備が漢中に進(jìn)軍したのは、建安二十三年(西暦二一八年)のことです。夏侯淵を定軍山で斬ったのは、建安二十四年(二一九年)の正月でした。曹操が漢中に入ってきたのはこの年の三月で、五月には兵を引いて長安に退卻しています。もし関羽が、曹操を牽制するために戦ったのなら、なぜ早くやらなかったのですか?七月になって、玄徳はすでに漢中に入っていて、すでに漢中王を自稱しているのに、襄樊を攻めるのは、余計なことではありませんか。 ![]() 因此,關(guān)羽此舉,只能理解為得寸進(jìn)尺。說得好聽是乘勝前進(jìn)再接再厲,說得難聽是貪得無厭自不量力。到底是哪種情況呢?這就牽涉到前面提出的又一個小問題,那就是襄樊戰(zhàn)爭該不該打。 對于這個問題,也有兩種意見。一種認(rèn)為該打。所謂“該打”,也包括兩個內(nèi)容。第一,按照諸葛亮為劉備在隆中所做的規(guī)劃,襄陽和樊城是遲早要拿下的。拿下襄樊,才能全部據(jù)有荊州。這叫做“必打”。第二,關(guān)羽拿下襄樊并非全無可能,至少有條件:一、半年多以前,南陽地區(qū)發(fā)生了反叛曹操的事件,說明曹操在荊州北部的統(tǒng)治并不穩(wěn)定;二、劉備已得漢中,又得上庸等地,軍心大振,氣勢正旺;三、孫權(quán)在東方進(jìn)攻合肥,可以遙相呼應(yīng)。曹操那邊,剛剛撤離漢中,又要對付孫權(quán),難免顧此失彼,這叫做“能打”。必打加能打,得出的結(jié)論就是“該打”。 ですから、関羽は図にのったとしか考えられません。よく言えば勢いに乗ってさらに頑張りなさい、悪く言えば欲張りです。どちらでしょうか?これはもうひとつ、襄樊戦をすべきかどうかという小さな問題につながります。 この問題についても、二つの意見があります。一つは打つべきだという考え方です?!复颏膜伽工趣?、二つのことです。第一に、諸葛亮が隆中で劉備のために立てた計畫に従えば、襄陽と樊城はいずれは落さねばなりません。襄樊をとって、はじめて荊州をすべて手中におさめることができるのです。これを「必打」といいます。第二に、関羽の襄樊攻略は、一、半年余り前に南陽で曹操に反旗を翻したということは、曹操の荊州北部の支配が安定していないことを示しています。二、劉備はすでに漢中を得て、また上庸などの地を得て、軍心は大いに盛り上がって、勢いはちょうど旺です;三、孫権が東方で合肥を攻撃したことは、遠(yuǎn)くから呼応しています。曹操の方は、漢中から撤退したばかりなのに、孫権を相手にしなければなりません。これを「能打」といいます。打たなければならない、打たなければならない、という結(jié)論に達(dá)します。 ![]() ![]() 但是,何茲全先生卻另有說法,他認(rèn)為襄樊戰(zhàn)爭是關(guān)羽“在一個不是時機(jī)的時候的一次軍事冒險”。按照何先生《三國史》的觀點,劉備剛剛奪取漢中,正需要穩(wěn)定局勢,休養(yǎng)生息,豈能一戰(zhàn)再戰(zhàn)?此其一。劉備已定漢中,關(guān)羽再取襄樊,一前一后,并非兩路出兵東西夾擊,何況天下無變,不符合諸葛亮的設(shè)計,此其二。關(guān)羽之軍,貌似聲勢浩大,其實力量有限。如果沒有洪水幫忙,他連降于禁、斬龐德恐怕都做不到。即便如此,樊城仍然久攻不下,而徐晃一軍突入,關(guān)羽就只能撤圍。也就是說,關(guān)羽的威力,是被夸大了。所以何先生說,孫權(quán)偷襲南郡,只是撿了個便宜。沒有孫權(quán)的背后襲擊,曹軍也能反擊,關(guān)羽也會失敗,只不過不會敗得那么慘罷了。 ところが、何茲全先生は、襄樊戦爭を関羽の「時ならぬときの軍事的冒険」と、べつのことばでいっています。何先生の『三國史』の観點によると、劉備は漢中を奪取したばかりで、情勢を安定させ、休養(yǎng)を必要としています。その一つです。玄徳はすでに漢中にあり、関羽は襄樊をとります、前後二手で東西に出兵して挾撃するのではなく、まして天下に変りはありません、孔明の設(shè)計にあわない、その二。関羽の軍は、大軍のようですが、力には限りがあります。洪水の助けがなければ、禁に下ることも、パウンドを斬ることもできなかったでしょう。それでも樊城はなかなか攻めきれず、徐晃の一軍が突入すれば、関羽は退卻せざるをえません。つまり、関羽の威力は、誇張されているのです。孫権が南郡を襲ったのは、安物を拾っただけだと、何先生は雲(yún)いました。孫権の背後襲撃がなくても、曹軍は反撃できたでしょうし、関羽も敗北したでしょう。 ![]() 我個人認(rèn)為,何先生所言甚是。綜上所述,我們可以對第一個大問題得出結(jié)論:第一,襄樊戰(zhàn)爭是關(guān)羽發(fā)動的,劉備沒有授權(quán)或授意,但也沒有反對。第二,關(guān)羽發(fā)動襄樊戰(zhàn)爭的原因,是勝利沖昏頭腦,錯誤估計形勢,以為可以再接再厲,一戰(zhàn)而定乾坤;而劉備集團(tuán)上下,則正如盧弼《三國志集解》引黃恩彤所言,是“但喜其勝,不虞其敗”,放手讓他進(jìn)攻。第三,發(fā)動襄樊戰(zhàn)爭,時機(jī)不對,準(zhǔn)備不足,是錯誤的。之所以有此錯誤判斷,又與關(guān)羽的好大喜功有關(guān)。于是我們便又有了一個問題:劉備該不該讓關(guān)羽都督荊州? 這個問題就不太好回答了,因為你不能說劉備完全選錯了人。首先,關(guān)羽忠誠,這個不成問題。其次,關(guān)羽能干。自從劉備起兵,南征北戰(zhàn),不管在什么時候,不分兵則罷,一旦分兵,一定是自己帶一支部隊,關(guān)羽帶一支部隊,可見其有獨當(dāng)一面的才干。第三,關(guān)羽在行。守荊州,是要能帶水軍的,偏偏關(guān)羽就能。當(dāng)年劉備敗于長坂坡,就是靠關(guān)羽率水軍接應(yīng)才脫離危險。關(guān)羽本是北方人,居然一到南方就能帶水軍,也可見其能干。忠誠,能干,內(nèi)行,這樣算下來,劉備入蜀,要留一員大將駐守荊州,還真非關(guān)羽莫屬。 私個人は、何先生の言うことは甚だ正しいと思います。このように考えると、まず第一の大問題は、襄樊戦は関羽が起こしたもので、劉備は授権も意向もしなかったが、反対もしなかったということです。第二に、襄樊戦をおこしたのは、関羽が、勝利におぼれて、もういちど頑張って、一戦で乾坤を決すると、情勢をまちがえたからであります。一方、劉備の集団は、盧弼の『三國志集解』が黃恩彤の言葉を引用しているように、「しかし、その勝利を喜べば、その敗北を恐れず」と、彼に攻めさせたのです。第三に、襄樊戦をおこすのは、時期がよくなく、準(zhǔn)備不足で、まちがっていた。それを誤るのは、関羽のよろこびと関係があります。そこで、玄徳は、関羽に荊州を都督させるべきでしょうか。 これは答えにくい質(zhì)問ですが、玄徳が完全に人選を誤ったとはいえません。第一、関羽の忠誠は問題ありません。第二に、関羽は有能です。玄徳が兵を起してからは、いつでも、兵を分けなければいいのですが、分れば、かならず自分が一隊、関羽が一隊と、一人前の器量があります。第三は、関羽の行です。荊州を守るには、水軍を連れなければなりませんが、関羽にはそれができます。その年、玄徳が長坂坡で敗れたときも、関羽が水軍を率いて救援にあたっていました。関羽はもともと北方の人ですから、南方へ行くとすぐ水軍を連れて行けるほど有能です。忠節(jié)、有能、玄人、こう考えてみると、玄徳が蜀に入ったとき、荊州に一人の大將を殘すとすれば、やはり関羽をおいてほかにありません。 ![]() 但是,關(guān)羽的性格有問題,那就是狂妄自大,剛愎自用,好大喜功,愛戴高帽子。據(jù)《三國志·關(guān)羽傳》,建安十九年(公元214年)劉備進(jìn)攻成都,馬超前來投奔。關(guān)羽因為和馬超不熟,就給諸葛亮寫信,問馬超這個人的才能可以和誰相提并論。諸葛亮知道關(guān)羽恥為人下(亮知羽護(hù)前),就回答說,馬孟起(馬超字孟起)文武雙全,雄烈過人,堪稱“一世之杰”,可以和張益德(張飛)并駕齊驅(qū),但還是比不上美髯公(關(guān)羽)之“絕倫逸群”呀!關(guān)羽看了,十分高興,把諸葛亮的信遞給來訪的客人傳看。 對于這件事,也有不同評價。有人說,諸葛亮真滑頭,兩邊都不得罪。我說不是。相反,我認(rèn)為,此時的諸葛亮雖然還不是丞相,卻已經(jīng)表現(xiàn)出丞相之才。丞相的任務(wù)是什么?是“燮調(diào)陰陽”,也就是處理好上上下下方方面面的關(guān)系。馬超新來投奔,內(nèi)心未免忐忑,必須予以肯定和安撫,何況人家本來就是人才,豈能貶損?然而關(guān)羽又不容有人超過自己,也就只好來他個“一世之杰”仍不如“絕倫逸群”了。 しかし、関羽の性格に問題があるのは、尊大で獨善的、獨善的、獨善的、獨善的な性格です?!喝龂鹃v羽伝』によると、建安19年(西暦214年)、劉備が成都を攻撃すると、馬超が駆けつけてきました。関羽は馬超と親しくなかったので、孔明に手紙を書き、馬超の才能を誰と比較するかを?qū)い亭蓼筏俊iv羽の恥を知った孔明は、「馬孟起(孟起)は文武両道、雄烈、まさに「一世の傑」であり、張益徳(張飛)と肩を並べても、美髯公(関羽)の絶倫逸群には及びません」と答えた。関羽は、それを見て、大いによろこんで、孔明の手紙を、來訪の客にまわしました。 この件についても、評価は分かれています。ある人は、孔明は本當(dāng)にずるい、どちらも悪いことはしない、と言いました。違うと言いました。反対に、この頃の孔明は、まだ丞相ではありませんが、すでに丞相としての才を示していたと思います。丞相のお役目はなんですか。「燮調(diào)陰陽」、つまり上下上下の関係をうまくすることです。馬超が新參してきたので、內(nèi)心はいささか不安ですが、肯定して慰めなければなりませんし、まして人はもともと人材ですから、けなすことはできません。しかし関羽はまた人が自分を超えることを許さないので、彼の「一世の傑」に來てやはり「絶倫逸群」に及ばないしかありません。 ![]() 當(dāng)然,諸葛亮這樣說,也有副作用,那就是把關(guān)羽給“慣壞了”。不過這也不是諸葛亮一個人的責(zé)任,劉備集團(tuán)包括劉備本人,也都要負(fù)責(zé)任的。因為他們也都讓著關(guān)羽,給關(guān)羽戴高帽子,或者用戴高帽子的辦法來對付關(guān)羽。據(jù)《三國志·黃忠傳》,建安二十四年(公元219年)七月,劉備自稱漢中王,拜關(guān)羽為前將軍,張飛為右將軍,馬超為左將軍,同時擬拜黃忠為后將軍。當(dāng)時諸葛亮就料定關(guān)羽必不高興。因為論關(guān)系,黃忠不及張飛;論名聲,黃忠不及馬超。關(guān)羽豈肯與之“同列”?劉備說,沒關(guān)系,我自有辦法。劉備的辦法是派費詩去做工作。據(jù)《三國志·費詩傳》,費詩一到關(guān)羽那里,關(guān)羽果然就跳了起來,說大丈夫怎么能和一個老兵平起平坐!費詩不緊不慢地說,王者用人,不拘一格。漢王(劉備)破格提拔黃漢升(黃忠),不過因為他新立大功罷了。但在漢王的內(nèi)心深處,漢升的輕重豈能和君侯(關(guān)羽)相提并論!君侯和漢王是什么關(guān)系?心心相印,血肉相連,等于是一個人。漢王的榮辱就是君侯的榮辱,漢王的禍福就是君侯的禍福,君侯難道還要和漢王講價嗎?我費詩只不過是個送信的,君侯不接受,費詩回去就是,只怕君侯要后悔。關(guān)羽聞言感悟,立即受拜。 むろん、孔明のことばには、関羽を「甘やかした」という副作用もあります。しかし、これは孔明一人の責(zé)任ではなく、玄徳自身をふくめて、玄徳グループの責(zé)任でもあります。彼らも関羽に背の高い帽子をかぶせたり、かぶせたりして関羽に対抗していたのです?!喝龂军S忠伝』によれば、建安二十四年七月、劉備は漢中王を自稱し、関羽を前將軍、張飛を右將軍、馬超を左將軍に、黃忠を後將軍にしようとしました。そのとき孔明は、関羽の不興を予想していました。関系を論ずるため、黃忠は張飛に及ばないです;名聲からいえば、黃忠は馬超にも及びません。関羽が同列ではありませんか。玄徳は、かまいません、わしにも方法があります。劉備のやり方は、金詩を使って工作をさせることでした?!喝龂尽护钨M詩伝によると、費詩が関羽のところへ行くと、関羽はやはり飛び起きて、大丈夫な男が老兵と対等になれるものかと言ったそうです。フェシはのんびりと、王は人を使い、格式をわきまえないと言いました。漢王(劉備)が黃漢昇(黃忠)を抜擢したのは、彼が新たに大功を立てたからにすぎません。しかし漢王の心の底では、漢升の軽重を君侯(関羽)と同列に論じることはできません。君侯と漢の王はどんな関系ですか?心がつながって血と肉がつながって、一人の人間です。漢王の栄辱は君侯の栄辱で、漢王の禍福は君侯の禍福で、君侯はまさか漢王と交渉しますか?費詩はただ手紙を送っただけですから、君侯が受け取らなければ、費詩は帰ればいい、君侯は後悔するでしょう。関羽はそれを聞いて、たちまち拝んでしまいました。 ![]() 費詩這樣說,在劉備集團(tuán)當(dāng)中,已經(jīng)算是敢摸老虎屁股的了,但也還是順著毛摸。這說明劉備集團(tuán)從來就是慣著關(guān)羽的,關(guān)羽變成了一個“慣壞了的孩子”?!皯T壞了的孩子”有兩個特點,一是任性,二是天真。因為慣壞了,所以任性;因為是孩子,所以天真。關(guān)羽就是這樣一種人。因為任性,所以發(fā)動了襄樊戰(zhàn)爭;因為天真,所以被呂蒙和陸遜忽悠。因為既任性又天真,所以在處理敵、我、友關(guān)系時,犯了一系列錯誤。 這里有兩個例子可以說明問題。據(jù)《三國志·關(guān)羽傳》裴松之注引《典略》,襄樊之戰(zhàn)時,孫權(quán)曾主動提出幫助關(guān)羽,但也存了一個小心眼。他下令部隊不要走得太快,同時派使者去通知關(guān)羽。關(guān)羽非但不利用這個機(jī)會穩(wěn)住孫權(quán),或者利用孫權(quán)牽制曹操,反而毫無道理地痛恨孫權(quán)動作太慢。他仗著自己新降于禁牛氣沖天,居然破口大罵說,王八羔子,竟敢磨磨蹭蹭(貉子敢爾)!等我拿下樊城,再來滅你! 費詩はこう言いました。劉備グループの中では、虎の尻を觸る方ですが、やはり毛を撫でます。これは劉備グループが関羽を甘やかしていたことを示していて、関羽は「甘やかした子供」になってしまったのです。「甘やかされた子ども」には二つの特徴があります。一つはわがままで、もう一つは無邪気です。甘やかすから、わがままです;子供だから無邪気です。関羽はそういう人です。わがままだから、襄樊戦をおこしたのです。甘いから、呂蒙や陸遜にだまされたのです。わがままで無邪気なために、敵味方関係で試行錯誤を繰り返してしまいます。 ここに2つの例があります襄樊の戦いのとき、孫権は関羽を助けたいと申し出ましたが、一方では、小さな心根がありました。あまり速く行かないようにと、関羽へ使者を走らせました。関羽は、この機(jī)會に孫権を宥めたり、曹操を牽制したりするどころか、孫権の動きの遅さを、理不盡にも恨んでいました。彼は自分が新たに禁牛になったことを笠に著て,なんと口汚く言った,おいら,よくもぐずぐず(タヌキ)!樊城を落してから、あなたを滅ぼします。 ![]() ![]() ![]() ![]() |
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